ヌクレインとヌクレオチドー『千のプラトー』
千のプラトーの、第三のプラトー(第三章)訳文について、疑問点をあげる。
この章、訳の担当は、守中高明氏
「例えば核蛋白質の配列は、一定の相対的に不変な表現と不可分に結びついており、この表現をとおしてそれら個々の配列は有機体を構成するさまざまな複合物や器官、機能を決定している。」
上 101ページ
原文
les séquences nucléiques étaient inséparables d'une expression relativement invariante par laquelle elles déterminaient les composés, organes et fonctions de l'organisme.
p.58
les séquences nucléiques を、核蛋白質の配列と訳している。
手持ちのロワイヤル仏和中辞典を見ると、nucléine はヌクレイン(核蛋白質複合体)とされている。
守中訳で、核蛋白質と訳された理由はこの辺りにありそうだ。
しかし、内容的には、DNAの塩基配列の話をしているように読める。
改めて辞書を見ると、形容詞 nucléiques は、「核の」という意味で、acides nucléiques は核酸、となる。
そして、ヌクレインという単語を検索すると、19世紀に、細胞核の中から発見された物質が、核酸と蛋白質に分離される前に名付けられたものだとわかる。
細胞核の中では、DNAの繊維は蛋白質にとりまかれていて、例えば染色体に収まる時には、蛋白質が形成する構造の中にDNAが折りたたまれている。
ただ、そこでの蛋白質の配列に、遺伝的な情報はない。核にある蛋白質の配列が生物の機能や構造を左右しているという事も無い。
そのような、20世紀に得られた生物学的な知識を踏まえるなら、les séquences nucléiques を「核蛋白質の配列」と訳すべき積極的な理由はないとおもわれる。
文脈的に、科学史的に古い概念が意味を持つ議論とも思えない。
もちろんドゥルーズ・ガタリの議論は、科学的な理論に収まるものではなく、科学的知識の再解釈にとどまるものではないし、この章の語り手はコナン・ドイルが創作した架空の人物という設定になってはいるのだが、ジャック・モノーやフランソワ・ジャコブの著作が参照される場面でもある。
ここは、塩基配列、ヌクレオチドの配列、とでも訳しておけば十分なところだろう。
まあ、この程度の内容は、原文を見なくても、分かる人には推測できることではあるが、科学への言及については、なにかと不確かさを指摘されたり、懐疑的に見られがちなドゥルーズの関わる著作なので、科学的知識や科学史的内容については、より慎重な訳文の検討がなされて良い場面だと思われる。
ドゥルーズ・ガタリが科学的知識をどのように踏まえているかについて、誤解をよばない訳文が望まれる。
ヌクレインという命名と、蛋白質から分離された核酸が発見された科学史的ないきさつについては、次の記事が参考になる。
http://morph.way-nifty.com/grey/2006/09/post_ab14.html
友情以外の生ー『全体性と無限』
ブーバーについて論じる箇所。
熊野訳
〈私ーきみ〉によっては、友情以外の生のかたちを説明することはできない……つまりエコノミーを、ものとの関係を代表する、この幸福の追求を説明することができないのである。
上 123ページ
Je-Tu……ne permet pas de rendre compte (si ce n'est que comme d'une aberration, d'une chute ou d'une maladie) d'une vie autre que l'amitié : l'économie, la recherche du bonheur, la relation représentative avec les choses.
p.65
合田訳
私と君は家政、幸福の追求、事物との表象的関係といった友情以外の生を解明することができない……。
91ページ
事物との関係性を、幸福の追求と並列すると読むか、幸福の追求に、ものとの関係性が代表されると解釈するか。
合田訳の方が、すっきりしていると個人的には思う。熊野訳の方が、訳者の解釈が強く出ている。
科学的認識の位置付けについて、微妙に解釈が分かれそうなところ。