主題化されたものの認識(2) invocation はどんな祈りか
レヴィナス『全体性と無限』について。
前回コメントした箇所の続き。
La connaissance du thématisé n'est qu'une lutte recommençante contre la mystification toujours possible du fait; à la fois, une idolâtrie du fait, c'est-à-dire une invocation de ce qui ne parle pas, et une pluralité insurmontable de significations et de mystifications.
p.60
それは、事実の偶像崇拝、言い換えれば語らないものに対して祈ることである
熊野訳、(上)114ページ
偶像崇拝は idolâtrie 。
語らないものに対して祈ること、は、une invocation de ce qui ne parle pas の訳である。
語らないものに対して祈る、とは、どういうことだろうか?
合田訳ではこうなっている。
語らないものへの祈願
invocationを、「祈願」と訳している。
手元の仏和辞書を見ると、加護を求める祈り、とある。一種の呼びかけであるような祈りということだろう。
場合によっては、召喚と訳す場合もあるようだ。
つまり、神仏に加護を求めるように、事物をあてにするような態度のことを示していると思われる。
具体的な場面を考えると、護身用にナイフをふところに忍ばせるとか、防災用に食料や水を蓄えて、安心する、というようなこと、だろうか。
(続く)