ヌクレインとヌクレオチド 補足
前の記事では、他のページにも同じ訳語の問題が見られることに気づいていなかったので補足する。
ヌクレインとヌクレオチドー『千のプラトー』 - 思想の読み書き
「本質的なのは、核蛋白質複合体のシークエンスの線形性である」
『千のプラトー』
上 132ページ
ここで、核蛋白質複合体には、ヌクレインとルビが振られている。
原文は次の通り。
L'essentiel, c'est la linéarité de la séquence nucléique .
p.77
文脈的に、nucléique (細胞核の、という意味)を、ヌクレイン( nucléine )と訳さなけれならない理由は無いと思われる。
同、133ページ
「核蛋白質のシークエンス」も、同様に、原文は
L'alignement du code ou la linéarité de la séquence nucléique marquent ....
p.78
nucléique である。
なお、次のサイトでは、séquence nucléique を、séquence nucléotidique と同義としている。
Synonyme séquence nucléique | Dictionnaire synonymes français | Reverso
内容的には、核酸の塩基配列について、線形性を問題にしている文という事で間違いないだろう。
形態学 個体発生と系統発生
『千のプラトー』でジョフロワ・サン=ティレールの話が出てくる。
科学史的に、ジョフロワについて教えてくれるコンパクトな本がないか探していて見かけた次の本。
形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ (サイエンス・パレット)
ヘッケルがとなえた、個体発生は系統発生を繰り返す、という「反復説」は、すでに否定された、というのは、英米における生物学者、科学史家による反ドイツキャンペーンだ、と書かれていて(p.69)、なるほど、と。
反復説は、単純に成り立つものではないが、今でも有益な観点だ、という著者の見方が面白い。
科学史的な話題と最先端の研究動向が融合したような書き振りが珍しいと思ったら、あとがきを読むとユニークな経歴の人だった。
しかし、ジョフロワについては、なかなか良い本ないですね。
ヌクレインとヌクレオチドー『千のプラトー』
千のプラトーの、第三のプラトー(第三章)訳文について、疑問点をあげる。
この章、訳の担当は、守中高明氏
「例えば核蛋白質の配列は、一定の相対的に不変な表現と不可分に結びついており、この表現をとおしてそれら個々の配列は有機体を構成するさまざまな複合物や器官、機能を決定している。」
上 101ページ
原文
les séquences nucléiques étaient inséparables d'une expression relativement invariante par laquelle elles déterminaient les composés, organes et fonctions de l'organisme.
p.58
les séquences nucléiques を、核蛋白質の配列と訳している。
手持ちのロワイヤル仏和中辞典を見ると、nucléine はヌクレイン(核蛋白質複合体)とされている。
守中訳で、核蛋白質と訳された理由はこの辺りにありそうだ。
しかし、内容的には、DNAの塩基配列の話をしているように読める。
改めて辞書を見ると、形容詞 nucléiques は、「核の」という意味で、acides nucléiques は核酸、となる。
そして、ヌクレインという単語を検索すると、19世紀に、細胞核の中から発見された物質が、核酸と蛋白質に分離される前に名付けられたものだとわかる。
細胞核の中では、DNAの繊維は蛋白質にとりまかれていて、例えば染色体に収まる時には、蛋白質が形成する構造の中にDNAが折りたたまれている。
ただ、そこでの蛋白質の配列に、遺伝的な情報はない。核にある蛋白質の配列が生物の機能や構造を左右しているという事も無い。
そのような、20世紀に得られた生物学的な知識を踏まえるなら、les séquences nucléiques を「核蛋白質の配列」と訳すべき積極的な理由はないとおもわれる。
文脈的に、科学史的に古い概念が意味を持つ議論とも思えない。
もちろんドゥルーズ・ガタリの議論は、科学的な理論に収まるものではなく、科学的知識の再解釈にとどまるものではないし、この章の語り手はコナン・ドイルが創作した架空の人物という設定になってはいるのだが、ジャック・モノーやフランソワ・ジャコブの著作が参照される場面でもある。
ここは、塩基配列、ヌクレオチドの配列、とでも訳しておけば十分なところだろう。
まあ、この程度の内容は、原文を見なくても、分かる人には推測できることではあるが、科学への言及については、なにかと不確かさを指摘されたり、懐疑的に見られがちなドゥルーズの関わる著作なので、科学的知識や科学史的内容については、より慎重な訳文の検討がなされて良い場面だと思われる。
ドゥルーズ・ガタリが科学的知識をどのように踏まえているかについて、誤解をよばない訳文が望まれる。
ヌクレインという命名と、蛋白質から分離された核酸が発見された科学史的ないきさつについては、次の記事が参考になる。
http://morph.way-nifty.com/grey/2006/09/post_ab14.html
友情以外の生ー『全体性と無限』
ブーバーについて論じる箇所。
熊野訳
〈私ーきみ〉によっては、友情以外の生のかたちを説明することはできない……つまりエコノミーを、ものとの関係を代表する、この幸福の追求を説明することができないのである。
上 123ページ
Je-Tu……ne permet pas de rendre compte (si ce n'est que comme d'une aberration, d'une chute ou d'une maladie) d'une vie autre que l'amitié : l'économie, la recherche du bonheur, la relation représentative avec les choses.
p.65
合田訳
私と君は家政、幸福の追求、事物との表象的関係といった友情以外の生を解明することができない……。
91ページ
事物との関係性を、幸福の追求と並列すると読むか、幸福の追求に、ものとの関係性が代表されると解釈するか。
合田訳の方が、すっきりしていると個人的には思う。熊野訳の方が、訳者の解釈が強く出ている。
科学的認識の位置付けについて、微妙に解釈が分かれそうなところ。