思想の読み書き

思想と哲学

アラン『小さな哲学史』ピュタゴラスー試訳

 

アラン『小さな哲学史』(みすず書房)として訳されている

 


Abrégés pour les aveugles.

Portraits et doctrines de philosophes anciens et modernes (1942)

 


の、ピュタゴラスのところですが

 

6頁のあたりの訳文がどうにもよくわからないので、原文に当たって自分なりに訳してみた。

 

 

原文

 

il se hâta de prononcer que tout est nombre. Et il fit bien de se hâter, car aujourd'hui encore, quand on a mille raisons de plus de le dire, comme il l'entendait, en ce sens que tout le désordre se fait pourtant selon l'Esprit, aujourd'hui cette vérité s'efface encore devant le témoignage des sens, dès que la force affirmative du législateur se laisse surmonter.

 

http://athenaphilosophique.net/wp-content/uploads/2019/07/ALAIN-Abrégé-pour-les-aveugles.pdf#page7

 


試訳

 


ピュタゴラスは、すべては数である、と急いで述べた。そして、急いだのは適切だった。なぜなら、今日でもなお、「すべては数である」と言うべき更なる理由が、ピュタゴラスがそう考えたように、無数にあったとしても、あらゆる混乱はそれでも「精神」次第で起きるという意味で、「すべては数である」という真理は、諸感覚の証言を前にして、法を立てる者の断定的な力が乗り越えられてしまうやいなや、今日また、消え去ってしまうのだから。

 

 

 


こんな理路の内容なのだと思われる。

増田四郎と随想全集

いままでこのブログでふれてきたオンライン読書会では、その後カントを読んだりしていたが、紆余曲折あって、今はフロム『自由からの逃走』を読んでいる。

その関連でヨーロッパ中世の歴史について学び直したくなり、20年ぶりに増田四郎の本を手に取った。

大学生時代の教養課程で西洋史の授業を受けていて、課題に取り組むなかで氏の中世都市論に触れた。その名前を忘れなかったのは、著述の鮮やかさが印象深かったからだろう。


検索してみると、今住んでいる自治体の図書館に、尚学図書という出版社から出た『随想全集』という叢書が収蔵されていて、その5巻が、「貝塚茂樹、増田四郎、柳田國男集」というものだった。

増田四郎という人は、こういう並びに載る人だったのかと印象を新たにした。

50年ほど前の本だが、叢書の月報が、綴じて留められることもなく、ページの間に挟まったままに残っていた。

そこで、中田祝夫という国語学者が増田四郎の思い出を書いていて、これがまた実にしみじみと味わい深い読み物だった。

旅行中、片田舎の温泉宿で偶然出会った若者が増田四郎の信奉者だったという話から、同郷の増田四郎が奈良の山奥の村々でいかに秀才として知れ渡っていたかを語り、今は学者として引け目を覚えると述べている。

ネットで軽く調べると、中田祝夫という人も学者としてとても立派な方で、そういう人にも引け目を感じさせるほどの存在感があったのが増田四郎という人だったのだなと思う。

地道な歴史家というイメージを持っていたけど、思った以上にスケールの大きな人だ。

 

この随想全集に収録された増田四郎の文章は、戦前から戦後にかけて日本の学術を担った人の篤実な人柄が偲ばれる、柔らかな語り口の文章だった。

なかでも、いちばん印象に残ったこと。

戦後、ヨーロッパに留学するのに、船旅をしたと書いている。

そして、船旅の途中に、日本の商船が輸出する車を積んで航行するのを見たと書いていた。

海外への船旅といえば戦前のことというイメージを持っていたので、50年代というのはそういう時代だったのか、と思う。

今読むと、日本の現状を正しく予見しているような、先見的な展望も記されているという感想が残る。


増田四郎というと、自分にとって、祖父よりも上の世代の偉大な学者というところだが、日本の近代について振り返り手探りするための道標を残してくれているように思う。

この人が書き残したものを、コツコツと読んでおきたい気持ちになって関連の書籍など、いくつか注文するなどした。


という話はとりあえずここまでにして、このブログについて一言。

過去の記事を見直すと、書きかけのままになっているものもあるが、何を書こうと思っていたか今となっては思い出せないので、今後続きを書けるかどうかは、わからない。

ともかく、しばらくは、読書の上で折に触れて印象に残ったことをここに気軽にメモしていきたい。

『全体性と無限』訳語メモ 岩波文庫p.191

熊野訳で気になったところを合田訳と照らし合わせてメモしていく(再開)。

 

「ことばを語ることはひたすら共通性を創設する。」

 

原語は「 communauté」(p.101)

 

合田訳では、「共同性」。合田さんは、一種説明的な意訳をしているらしく、原文を補足するような繰り返しの訳をしているようで、「共有ないし共同性」ともしている(国文社 p.142)。

 

ヌクレイン 補足の補足

千のプラトー、守中訳で、塩基配列に該当する内容に核蛋白質(ヌクレイン)という訳語を採用しているのは不可解で、時代錯誤だという話をしてきた。

http://readthink.hatenablog.com/entry/2016/12/16/203908

 

もう一箇所、ヌクレインと訳された箇所があったのに言及し忘れていたので、再度補足する。

内容的には同じことの確認である。

 

「一方には蛋白質単位のシークエンス、他方には核蛋白質(ヌクレイン)のシークエンス」(上 p.98)

 引用元では、括弧内はルビとなっている。

 

おそらく、守中訳では、ここでnucléiquesをヌクレインと解釈し、核蛋白質と訳すという方針を示そうとしているのだろう。

 

原文は以下の通り。

 

 d'une part la séquence des unités protéiques, d'autre part celle des unités nucléiques (p.57)

 

すでに指摘した通り、nucléiques は、核の、という形容詞で、ここでヌクレインと訳すべき理由はない。

 

原文で、unités、訳語で単位とされている言葉は、遺伝子暗号において、核酸三つの配列が単位となって、あるアミノ酸を指定していることを意味している。

 

参考

 http://www.toho-u.ac.jp/sci/biomol/glossary/bio/genetic_code.html

 

一列に並んだ核酸配列において、三つ一組となった塩基の順番がアミノ酸の配列を表し、その順番に結合されたアミノ酸の糸が、折りたたまれ立体構造をなし、生体を構成する蛋白質を形作る。

 

ドゥルーズガタリの原文は、そういう標準的で基礎的な分子生物学の知識を踏まえて書かれている。

 

ヌクレインなどを持ち出して解釈する余地はない。

 

 

主題化されたものの認識(2) invocation はどんな祈りか

レヴィナス『全体性と無限』について。

前回コメントした箇所の続き。

 

La connaissance du thématisé n'est qu'une lutte recommen­çante contre la mystification toujours possible du fait; à la fois, une idolâtrie du fait, c'est-à-dire une invocation de ce qui ne parle pas, et une pluralité insurmontable de significations et de mystifications.

p.60

 

それは、事実の偶像崇拝、言い換えれば語らないものに対して祈ることである

熊野訳、(上)114ページ

 

偶像崇拝は idolâtrie 。

語らないものに対して祈ること、は、une invocation de ce qui ne parle pas の訳である。

 

語らないものに対して祈る、とは、どういうことだろうか?

 

合田訳ではこうなっている。

 

語らないものへの祈願

 

invocationを、「祈願」と訳している。

 

手元の仏和辞書を見ると、加護を求める祈り、とある。一種の呼びかけであるような祈りということだろう。

 

場合によっては、召喚と訳す場合もあるようだ。

 

 つまり、神仏に加護を求めるように、事物をあてにするような態度のことを示していると思われる。

 

具体的な場面を考えると、護身用にナイフをふところに忍ばせるとか、防災用に食料や水を蓄えて、安心する、というようなこと、だろうか。

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

出口顯『レヴィ=ストロース まなざしの構造主義』

https://twitter.com/sacreconomie/status/794827016973393920

 

このツイートを見て、読んでみた。

 

来日したレヴィ=ストロースが、世阿弥に触発されて本のタイトルをつけたり、伊勢神宮の建物から論考の着想を得たりしていたと言ったエピソードや(第1章)、仙厓の画集がフランスで出たとき、序文を寄せていて、モンテーニュを仙厓になぞらえていたりする、という逸話(第5章,注90)が、個人的には興味深かった。

 

まなざしという切り口と、構造主義の再評価が、うまく結びついているとは思えなかったのだが、人類学者として、単なるアカデミシャンに留まらない、思想家としての姿を描いてみせてくれているように思う。

 

児童教育論と、ニューヨーク論に通底するものがアフリカ奥地のハムレットのエピソードに繋げられるあたりの筆致には(第4章)、議論としての辻褄がどうかということを抜きにして、視野を開いてくれるものがあった。

 

 

【現代思想の現在】レヴィ=ストロース まなざしの構造主義 (河出ブックス)

主題化されたものの認識(1)

レヴィナス『全体性と無限』を読んでいる。以下引用。

 

主題化されたものの認識は、事実についてはつねに可能な神秘化に対して絶えず繰りかえされる闘争にすぎない。

熊野訳、岩波文庫 上 114ページ

 

ここで神秘化と訳された原語は、mystification だった。

 

La connaissance du thématisé n'est qu'une lutte recommen­ çante contre la mystification toujours possible du fait; à la fois, une idolâtrie du fait, c'est-à-dire une invocation de ce qui ne parle pas, et une pluralité insurmontable de significations et de mystifications.

p.60

 

合田訳では、歪曲としている。

 

主題化されたものの認識は、つねに起こりうる事実の歪曲に対してたえずくり返される闘いにすぎない。

合田訳、国文社 85ページ

 

合田訳の方が理解できる。

 

ここで主題化されたものの認識とは、事物を対象化してとらえる、いわゆる客観的な認識のこと。

客観的認識が、相対的なものにとどまること。

科学的知識の正しさを絶対的に保証する根拠は無い、と論じる文脈。

したがって、客観的事実とは、つねに歪められる可能性がある、ということだろう。

 

いくつか見た限り、仏語の辞書では、欺瞞、ペテンという意味という意味を記載し、神秘化という意味は載せていない。

 

熊野訳は 、マルクスを踏まえているのかもしれない。

意訳として、訳者の解釈が説明がなされるべきところだと思われる。

 

(続く)